今日は悲しい日である。
中学生が中学生を殺してしまうという事件が起きたからだ。
これは、本当に言葉を失う。
これから起こるあらゆる悲劇を思うとただただ胸が痛む。
つい先日こんなことがあった。
あるクラスに補強で入っていた時に、ある男子生徒がハイテンションで自由帳に絵を描いていた。それはとても幼く拙い絵ではあったが、ほとんどの絵に赤い鉛筆で血のような物が描かれていた。
しかも日本とある国が戦争しているようでもあった。
本人は居たって無邪気にけらけら笑いながらその戦争の殺し合いとも取れる絵を描いていたのだ。
とても複雑な思いがした。
男子は戦いが好きである。でも何か行き過ぎてる感もあった。
自由帳だから何を書いても自由なのはわかるけど、あまりにもその殺し合い風の絵ばかりだったから。心が寒くなる思いがした。
この10年特にアニメやゲームの世界は殺し合いの世界ばかりになってきた気がする。
ブームになった鬼滅も見た人によれば、かなりグロテスクだということ。
最近はやりのゲームソフトも基本的には戦いものであり、そこには殺しがつきまとう。
子供にはディズニー見せていれば間違いないなんてことは、全く思わないけど。。。
あまりにも殺りくに溢れすぎてないか?
毎日何時間も目に触れるものが「殺し」や「流血」だというのは、何かが狂っているのでは?と思わざるを得ない。
我が家の子供たちも「ウォーキングデッド」初め、サイコサスペンスみたいなものにハマったりもしてた。世界がそういう映像に溢れているともいえる。
浴びるように見ていたら、やっぱり脳内もどんどん麻痺していくに違いない。
親たちもゲームや動画配信に子守りさせておけば楽だしつい、という気持ちかもしれない。
人間には本質的にグロテスクなものを好奇心で見たいという本能があると思う。
だから、ゴシップや殺人事件は数字が取れてしまうのだ。
でも、私の子供時代は人間の本質は同じでも、目に入る映像はもっと平和的なものが多かった。「サザエさん」「ドラえもん」「秘密のあっこちゃん」極めつけはカルピス子ども劇場の数々の名作。
ゲームセンターのゲームはまだ、インベーダーやせいぜいマリオシリーズで殺戮ものはかなり少なかった?今ほどでは無かったと思う。
それから更に数十年が経ち、「ポケモン」「クレヨンしんちゃん」「コナン」など、まだ殺戮ものはメジャーな地位ではなかった。
でも、徐々に「デスノート」「エヴァンゲリオン」「進撃の巨人」あたりから人が大量に人が死ぬアニメが売れに売れて、名作といえども子供には見せたくないものが増えてきたように思う。
心の闇を写し取るものはいつの時代にもある。
それは一つの真実でもある。
でも、溢れすぎてないか?
ディズニーも相変わらずファンタジーと愛と勇気と平和を頑張っているので、有り難いが、圧倒的な人気は殺戮ものではないか。。。。
垂れ流されているのも同じで、大人の方が制限をかけられないと子供は大量にそういう映像に埋もれていくことになる。
もしかしたら、その中で一定数の子が殺人に興味を抱いてしまったら?
そういうことも起きてもおかしくないだろう。
今回の愛知県の事件ももしかしたら、恨みもなく、何の感情もなく、ただ「殺してみたかった」という浅はかな興味だとしたら。。。
そういう世界を供給している大人にもかなりの責任があると思う。
数字をとるためとか、お金を儲けるための作品作りじゃない、子供たちを健全に育てていくモノづくりが必須じゃないのか。
今の子たちはデジタルネイティブで、生まれたときからスマホやネットに触れていく。
与える側になる親も、ソフトを作る大人たちも、もう少し考え直す時に来てるんじゃないか。
刺激ばかりで、心が育たないのであれば何の意味も無いから。
塾の宿題に明け暮れるのではなくて。
友達と思い切り遊ぶ時間を与えてあげてほしい。
スマホを与える前に、週末は自然に触れさせてほしい。
寝る前の5分でいいから一緒に絵本を読んだり話したりしてほしい。
習い事よりも、家族で話す時間の方が何倍も彼らの心を育てる。
今の子供たちは心も魂も乾いてる。
乾ききっている心に脳に魂に何が必要か?
殺戮のゲームやアニメはあまりも危険じゃないのか。
もし、今回の事件に明らかな動機が無ければ、私たち大人は根本的なところで考え直さなければならない。
子供たちに光を与えられるような、そういうものを文化や、本や、音楽や、アニメや、会話や、神様の話や、芸術や、スポーツや、自然の中で思い切りあそぶことや、沢山の会話や、温かいご飯や。。。。。。。
あまりにも残酷で心が痛い。
神さまに祈るしかないけど。
小さな祈りでも通じることを信じて。
突然に天に召された尊い命にどうか平安と癒しを。
神よ若い魂を助けてください。
エーメン、エーメン、エーメン。