最近旧統一教会という言葉を何度見かける事か・・・
あの!合同結婚式から早30年くらいたつのか?もっと?
まあ、さておき。。。
日本では宗教や神様を信じるということ自体にかなりの抵抗とアレルギーがあるため、
なかなか理解されていない部分も多い。とにかく宗教=カルトという代名詞になってしまう。そこで辞書で
意味を調べると・・・
宗教とは
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神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また,神仏の教え。
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経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから,ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教,さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。〔哲学字彙(1881年)に英語 religion の訳語として載る〕"哲学字彙"
・・・となる。
なので、カルトを指すわけでも無く、また一部の信仰者が教会が宗教になるとダメだという言い分はこの意味とずれてくる。
宗教が権力やお金と結びつき悪をばらまくことの代名詞となっているわけなのだ。
権力により一つの方向へ向かわせるのは、洗脳(プロパガンダ)と呼ぶし、決して宗教という意味に含まれている訳ではない。
ちょっとした小理屈だけど。
まあさておき、私は個人的にはキリスト教信者であり、天地創造の神とその神が送ったひとり子イエスキリストを支えにしていくわけだが、黒人のゴスペルを起点にして信仰するようになったわけである。
長くなるのでその話はまた別の機会に。
つまり信仰というのは、目に見えない大きな力に対する畏敬の念、または感謝などである。
それに反して科学や経済は目に見える数字として現象を捉えることが出来るため、日本人の多くは目に見えない力よりも目に見える人間の力に信仰を置いていると言ってよい。
何でも強く信じる行為は、「宗教的」であると言ってよい。
例えばマスク、実際は効力を発揮していなくても、していないと気が済まないし、していれば安心なのだから。
心の安らぎを得ようとするという目的においては、共通するものがある。
人間は生まれついた時からある「不安」を抱えており、そのアンバランスを補うために宗教は生まれたと言っていいと思う。
そこに目に見えない力が働くときに、自信や勇気や生きる希望になればよい。
ただ、その弱さを利用して、権力の扇動に使おうとするのはプロパガンダであり、そこに信じる力が利用されるのははなはだ残念である。
それが今回の統一教会の問題であろう。
犯人の母親は夫の自死を乗り越えられず、神を知ったが、うまく利用させれてしまった。
人の弱さや善意を利用することは一番大きな罪と言える。
そういう意味でこの教祖は旧約聖書によれば、ゲヘナの火に投げられるのだ。
「信じる」ということは、時に美しくもあり、時に怖ろしい。
人間の生まれついての「不安」は逃れられない。
それがある限り、「宗教」は滅ぶことなどないのだ。
信じることにより、自分が良い方向に行くこと。
自分を空洞にしないこと。
口で言うのは簡単だけど、実はとっても難しいのだ。
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