Black lives matter 以外の命は言えないのか?
今、インスタでもTwitterでも、悩ましい議論がある。
All lives matterや、Asian lives matterは無いの?
とか、逆にそれは言わないでとか。
この議論が一人歩きしてる。
私の個人的意見はこうである。
Black lives matrerを20年間にわたり発信したものとして、この問題の本質は非抑圧者に使うものであるということ。
抑圧者や特権を持ってる、アメリカなら白人の人、日本なら日本人のいわゆるマジョリティの人たち多数派の人たちの命を訴えるものではない。
そもそも、国から守られ特権を与えられてるから。
国家のシステムにより、罪なき人たちが差別に遭い、今もその被害が絶えずに苦しんでいる。
そういう被差別者やマイノリティの人たちの命を守ろうという、運動なのだ。
だから、世界中にいる黒人の命だけを指してるのはブラックライブスマターだけど、同じ境遇で苦しんでいる人たちは、もちろん言う権利があり、それを長い間地道に支援してきた人たちにも、言う権利があるに決まってる。
それは、自分の友達や恋人や家族にそういう人たちが居れば、その呼び方は色々あれど、どんどん発信してよいと思う。
黒人と白人の差別問題は広範囲であり、アメリカのみならず、あちこちで起きている。歴史も長い。
だから、世界が連帯した。
もちろん当事者や、支援者や、そのことに問題を感じてるマジョリティからも批判が出たのである。
それと、ブラックライブスマターは、アメリカの白人が言い出したことではない。彼らの400年の歴史の中でも、大きな抵抗運動は、黒人が連帯してその運動の中心となった。
だから、途切れずに受け継がれてると思う。殺されても、潰されても、権利を奪われても、何度も何度も起き上がり、彼ら自らが主体となり続けた。
全てのプロテストは、当事者ありきだと私は思う。それにつながる支援者たちの輪、連帯が大切だと思う。
当事者の思いを乗り越えて、支援者達の思いが突っ走れば、おそらく運動は空中分解しただろう。
体験したものと、そうでないものとの温度差は必ずあるから。
自戒を込めて言う。
それは、皮肉なことだけど、主体性やアピールするというアメリカの文化により進化した。
日本はどうだろう?
出る杭は打たれる。
敗戦後、主体性を捨てた。
人の目を過剰に気にするから、承認欲求という言葉まで生まれた。
だから、発信がしづらい社会ではある。
アメリカの何倍も。
人が目を逸らしたいネガティヴな情報から逃げ回るから。
ブラックライブスマターの情報ですら、何度批判されたか?
その情報は黒人に対して失礼だとか、知識よりも歴史よりも、感覚で感じれば良いんだとか。
遠回しに黙っとけという事でしょう。
だから、言いたいことは、これを契機に、批判なんて無視して、当事者支援者は、どんどん発信して議論を深めた方が良いと思います。
ブラックライブスマターは、その突破口としてあるんだから。
#blacklivesmatter
#nojusticenopeace
#minoritylivesmatter
#speakout
#沈黙は共犯