私の信仰歴はそれほど長くない。
黒人のゴスペルを知ってからだから、約20年ほど。
そのうちの5年くらいは、片足突っ込んだ程度だから、なんちゃってキリスト教信者のようなもので。まだまだ聖書もペラペラめくる程度だった。
祖父母がコテコテのクリスチャンホームで、祖父が牧師で神学者だったし、祖母もオルガニストで教会に従事してたから、全く縁がないわけじゃなかったのだけど。
ところが、少しずつその扉は開かれていった。
30代前半で黒人の古いゴスペルを知り、その歴史に触れて、奴隷だった彼らがどのようにしてイエスと繋がり、生きる道を与えられたか。
猛烈に知りたくなったのだ。
その後、基地の中の黒人系の人が集まる教会で洗礼を受けた。
あの時の事は一生忘れないだろう。
プールに入って、牧師が私のおでこに手を当てて祈った時に、魂が震えて涙が洪水のように溢れた。なんて言っていいか分からない満たされた感情でどうにかなりそうだった。
「クリスチャンになったんだ!!」と理屈じゃなく実感した瞬間。
それから15年が経ち、今では祈りも癒しも聖書のメッセージも少しは出来るようになってきた。ヨチヨチからようやく小学校4年生くらいになったのかな。
では、何故ここまでキリスト教に心を奪われるのか、、、という本題。
先ずは、音楽があること。
これは聖書の時代から、どの宗教にも様々な祈りや音楽があるとは思うけれど、パウロの伝道のおかげで、ヨーロッパ中にキリスト信仰が広まり、西洋のルネッサンスと繋がった。そして巨大なキリスト教音楽となって世界中にそのローマの国力や権力と共に広まることになる。
プロバガンダとして賛美が利用されたと揶揄する人も多いが、ほとんどの讃美歌がイエスを讃えるために、そして教会の繁栄と伝道のために作られたと思う。
キリスト教が他の宗教に比べてポピュリズムが強いというのは、音楽があるというのが大きいと思う。
音楽は即ち、スピリチュアルなパワーを持って、人の心の奥深くに響くからだ。
そして何よりもイエスが居るということ。
イエスは肉体を持って、神様がこの世に送られたひとり子。
それが分かったのは、イエスが十字架に架かる時に人々に蔑まれながらゴルゴダの坂を上がってきたときに、このように言う。
「父よ、我を見捨てるのですか」
これが、イエスがヒトとして存在していた証である。
この個所を私はお風呂の中で黙読していた。
とかく、神格化されがちなイエスのとても人間らしい貴重なシーンである。
その時も、死に向かう人間イエスとしての心の叫びを知る時、またもや洪水のように涙が溢れた。
彼はいつも優しくて弟子には厳しかった。その厳しさは愛に溢れていた。
弱い人たちの味方だった。
病人を癒したり、貧しい人たちにパンや魚を与えたり、いじめられていた女性をかばったり、元罪人をそばに置いていた。
人間であり、神であった。
神であり、また、人間であった。
その切り替えスイッチは常に天の父(神)が握っていた。
彼が示したのはただ一つ。「愛」である。
この現代に「愛」なんて口にしたとたん、そんなの虚構だよ?と言われそう。
でも、ひとは愛なしでは生きていけない生き物なのだ。
「愛」って何?と言われそうだ。
それは条件なしの優しさ、見返りなしの優しさ、命をささげるくらいの強さ、癒し、包容力、守りそして、赦しなのだ。
そのことを教えてくれるのがイエスが起こした様々な奇跡であり、聖書の物語なのである。
死んでもなお生き続ける魂。
彼の名前を今も世界中のクリスチャンが叫び、聖霊を呼び起こす。
それくらい、クリスチャンにとってのスーパーヒーローなのだ。
深い慈愛と強さと癒しを兼ね備えた我らがヒーロー、イエス。
見えないからこそ、深くつながれる。
生きていないからこそ、共に居られる。
ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、エーメン!
「音楽」と「愛」そしてスーパーヒーロー「イエス」
これが、私がクリスチャンとして生きるその理由である。
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