私は一応これでもクリスチャンなのですが、(自分なりには、クリスチャンしてると自負しております)いわゆる、そのいわゆるという感じの保守的なクリスチャンと違和感が生じるのは、何故なんだといつも思うわけなのですが、おそらく、いわゆるクリスチャンの方々は聖と俗をきっぱりと分けていて、聖は正しく清らかで聖霊が働き、俗は穢れていて、悪魔が住んでいて、聖霊は居ないという2元論的な見方をしているからでしょう。
人間とは100%聖人化することはあり得ません。と、私は思います。
目指すことはあっても、なることはないし、なったら人間でなくなると思うのです。
例え、人格者と言われていても、何かしら人間臭い部分はあるはずなのです。
例えばキング牧師(アメリカの公民権運動のリーダー)。彼には愛人が常に居たといいます。聖書では「妻を愛せ」となっているにもかかわらずです。
彼にも聖書の教えと自分の内面の間には矛盾があったわけです。
聖書には、誰の中にも罪があると書かれていて(創世記3:1-7)、それは、一般的に言う「違法行為」というものではなく、小さな嘘だったり、偽善、嫉妬、妬み、攻撃性、などがあると思います。どんな優しい人にも何かしら欠点もあるわけで、こんなに優しい人が、姑になった瞬間「鬼」になってしまった、なんて例もあります。
つまり、人間としてこの世に生を受けた瞬間から、私たちの内面には何かしら罪深いものが存在していて、その自分との闘いが人生なのでは?と思うわけです。
そう思ったときに、俗の部分は誰にでも存在していて、それは否定できないし、神もそのことを否定しろとは言っていないと思うのです。
これが、聖書のどこに書かれているか?と聞かれると難しいのですが、まずはイエスの弟子を見てみるとそれがわかります。
みな、元罪人であったり、徴税人や、漁師、過激派(今でいう左翼的な?)中々濃いメンバーであり、誰もエリート層的な優等生は見当たらないのですね。
そのことが象徴しているのは、何なのでしょうか?
俗世間の中でどっぷりと身を任せ、自分の世俗の欲を欲していた人間が、ある教えに目覚め、自分を良くしようと魂の訓練を受けます。
その成長の過程を聖書は綴っているとも言えます。
それが多くの人の共感を得ているし、特に徴税人であった(いわゆる取り立て屋)マタイは、非常にエリート層の律法学者たち、また、正義を振りかざし、支配欲をむき出しにする偽善者たちに厳しい視点を向けて書いているのです。
イエスの教えを忠実に守ろうとする人たちであっても、そのエリート意識から罪人になる可能性を示唆しています。
多くの弟子が、肉体労働者であって、学者でないことも興味深いですね。
ここからは私の個人的な考えですが。。。
人間の魂はその光と闇のバランスで出来ており、俗を全て排除した時には、ある人間性を失うのかもしれないということです。
罪や闇があるからこそ、より良くなろう、正しいことを知ろうという欲求が生まれるのではないでしょうか。
つまり無理矢理に自分の中から「俗」を「罪」を摘出する必要はなく、必要悪程度の「悪」はあって自然であり、「俗」的な自分も自然なのだと認めることの方が健全なのではないか?と感じています。
かと言って、自己中心的な欲ばかりに翻弄するのはダメで、人間は死ぬまで自分の「罪」と向き合い、成長し続けることは大事なことだと感じます。
そのために多くの宗教が生まれ、また思想が生まれたのでしょう。
人間は弱いから、人生の道しるべが必要なのです。
そして「俗」を排除するのではなく、うまく聖と俗のバランスを取りながら人生を楽しむ事が必要です。
目くじらを立てて「俗」を排除するのではなく、もっとしなやかに生きたいと思うのです。
黒人神学の父James H.Cornは、20世紀初頭のまだまだ奴隷制の強い名残の中で、黒人たちは自分たちの赤裸々な人生をギターに載せて語り、日曜日には教会で神と対話していました。それが人間らしい本来の姿であり、どちらにも「霊的な働き」があるとしました。それが「真実」であると。
私は、今まで感じていたことが、きちんと従来の西洋の神学の上に立ちながらも、人間の真実を語っているコーンのキリスト観と人間に対する深い理解に、感銘を受けました。
「聖と俗」それは即ち「人間の真理」であり、どちらかのみが正しい、真実であるということでは無い、ということをコーンは示してくれました。
だから、私は、クリスチャンとしてはなかなかユニークな存在なのです。
だって、彼らは「聖人」となろうとしていて、「俗人」としての自分は排除しているからです。
みんな、人間である限り、何かしら人間臭いものを持っている。
それが愛おしく感じませんか?
完璧に見えても、実は臆病だったり、せっかちだったり、イージーな嘘(悪意のない軽い)だったり、おこりんぼだったり、やきもちやきだったりね。
直したいけど直せない、「なくて七癖」というやつです。
それを神様は良しとして下さる。
行き過ぎない罪は愛嬌だから、まあ、許してやろうか?という具合に。
キングはなぜ愛人が必要だったのかな?
毎日毎日かかってくる暗殺予告に非常におびえていたから、現実逃避したかったのかな?それとも、ただの女好きだったのでしょうか?
真実は今も分かりません。
そんな罪人キング牧師にも大きな役割が与えられて、彼は全うし殉教したのです。
この世界とは常に「聖と俗」が一体となり、織物のように作られているのです。
だからこそエネルギーが生まれ、ダイナミックになっていくのでしょう。
そんなことを考えさせられる、今日一日でした。
コーンが生きて居たらなあ・・・・・
と年に数回は思ってしまう私でした。
バランス、大事です。
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