人間とはなかなかややこしい生きものです。
どんなにお金があっても、「幸せってなんだっけ?」「愛ってなんだっけ?」
って追い求めるプログラムになっているからです。
そう、私たちには元々脳内にプログラムされているのです。
神様ってすごい。
科学者たちはこんなシンプルなことにも気づけないんですから、気の毒です。
おそらく人類が出来てからゲノムに書き込まれた情報だとしか言いようが無いのでしょうね。
話を戻すと、そしてそのことを考えるのを放棄した瞬間に悪霊は、ここぞとばかりその人の心、魂、霊的な部分に入って来ます。
「そうだろう?愛や幸せなんて考えたって無駄だろう?」って囁きかけてきます。
そしてその人の人生を破壊するのです。それだけは気を付けなければなりません。
さて、「愛とは?」
人間はおぎゃーと生まれた瞬間から愛を探して彷徨います。
まず初めに出会う人間、つまり親から愛情を受けられないと深刻です。
なぜなら親の愛は無償で、子どものためなら命も捨てる。無償の愛のはずです。
ですから、無償の愛は神の愛と同等の愛です。
ところが、親も人間。
無償の愛をもって育てられる人はどれだけいるでしょうか。
子どもよりも自分自身が可愛い、自分の承認欲求を満たすために、子どもに英才教育を施し、自己満足する。
それはこどもを見ているのではなく、自分の方が可愛いのです。
そうなると、子どもにとっては愛が足りなくなります。
ありのままは受け入れられない。
その子の特徴を個性をよく見て、自然体に育てることがとても難しいこの時代です。
愛とはその人のために「命」を捨てる、捨てられるか?というレベルが一番の愛ではないでしょうか。
親子、夫婦、カップル、友人どのような形態であってもです。
そしてそれが他人であるとき、どれだけ難しいかということも知る必要があります。
無償の愛を与え続けれらるとしたら、他人であってもそこに愛が生まれ、神様が働きます。
では、もしも、全くの孤独であったとしたら?
その人は「愛」を知ることは無理なのでしょうか?
それはノーです。
知ることは可能なのです。
私の奉仕するホームレスのフードバンクを見ると、明らかに「幸せそう」で、「愛」を知っているホームレスの人たちが居ます。
彼らは肉体的、精神的「自由」を獲得し、最低限の荷物と食べ物で生き、そして神様と繋がろうとしています。
私が聖書を配るとあっという間に無くなるし、笑顔で冗談を言ってくれて、今日も来てくれてありがとうって声をかけてくれます。
彼らは感謝することを知っています。
人を気にかけることを知っています。
感謝できる人は、幸せに生きられる人です。
身寄りがなくても、神様や奉仕者に感謝して自由に生きる事。
それ自体がもうすでに「愛の中で生きる」人たちです。
単純に擁護しているのではなく、彼らと接していると自然に感じることです。
一人一人事情があるから多くは語らないけれど、おそらく何かしら問題があって、職場や家族から逃げてきた人が多いと思われます。
それを無責任だと批判する人も居るでしょう。
でも、そのような人達にも神の愛は変わらずに注がれています。
そのことを理屈では無く感じるのです。
そういう鋭さは父親譲りなのかもしれません。
父は徹底的に偽善者を批判していました。
ホワイトカラーで、インテリで社会的に良い地位に居ても、愛がない人間は山ほどいる。そういうやつらを俺は信用しないと。
だから、彼は大工さんや職人さんたちをとても愛してました。
人情が厚くて父なりにも愛を感じられる人たちだったのです。
祖父は大学教授で、父はとても反発を感じることが多く、祖父からは愛情を感じることは出来なかったようでした。そんな体験からも父のマインドセットは出来上がったのだと思います。
ところが聖書でも同じですね。
イエスはインテリの律法学者やパリサイ人を徹底的に批判し、周りに置いた弟子たちはみな「輩」と言われるような、肉体労働者や(漁師)罪人、身分の低い徴税人でした。おそらく父はイエスと同じようなことを感じていたのではないかと思われます。
知識ばかりで頭でっかちな人ほど「愛」が分からないのだと。
勿論例外もあるでしょうが。そうなりがち、なのかもしれません。
真実の愛は、条件を求めません。
その子に仮に障がいがあっても、勉強が出来なくても、どんな状況であっても、その子のために「命」を捧げられるかということです。
神様は、そのひとり子をお与えになりました。
そして人間の罪のために生贄として捧げたのです。
人間の数えきれない罪を我が子に負わせ、その命と引き換えに「赦し」を与えられました。どれだけ神が人間を愛したか、ということの証明です。
イエスは神の無償の「愛」をこの世に表すために送り出されたひとり子なのです。
人間とは不思議なもので、家族に囲まれていても、お金が腐るほどあっても、部下や同僚に恵まれていても孤独を感じることがある厄介な生きものなのです。
それは、心に隙間を作り、悪霊に心を受け渡しているからなのです。
もしもこれを読んでいる人で、孤独を感じ、愛が分からない、愛を求めている人が居るなら、聖書の世界に入ることをお勧めします。
聖書には人間の罪深さ、愚かさ、欲深さ、傲慢さ、また逆に従順さや逞しさ、美しさが神の目線から描かれています。
真理がそこにあります。
人間に失望した時に、人間に求めてはいけません。
人間は小さく弱い、それでも神との関係性で成長していく被造物です。
人間が創ったものは未だに神が創った自然の世界、奇跡に全く及びません。
足元に咲いている雑草に目をやってみてください。
人間のテクノロジーがあっても、この発色を再現することは出来ないのです。
それでも人間は自分たちの知能はすごい!と思っているのです。
中々滑稽で可愛げがあると言ったらそうだけど。(笑)
私たち人間が死ぬまで求めるであろう、「愛と幸せ」はちっぽけな被造物であると自覚し、神様との関係性の中でいくらでも見つけられるのです。
勿論人間と人間との間でそれを十二分に感じられるのなら、それも祝福です。
でもなかなかそういう人は少ないでしょう。
と、周りを見ていて感じることです。
神様との関係性が出来たら、
感謝が生まれる。
生かされている喜びが生まれる。
愛されている喜びが生まれる。
人に与える喜びに繋がる。
神はあなたが信じようが信じまいが、あなたに与え続けています。
愛は無性に与え続ける事。
与えて与えて与え続ける。
与えたら、与えて欲しいじゃあ、ダメなのです。
人間にはなかなかハードルが高いのです。
でも神様は与えて下さってます。
そこに目を向けたなら、心に眩しいくらいの光が入ってくることでしょう。
ハレルヤハレルヤハレルヤ!
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
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