AiLydia’s diary

ゴスペルに関すること全てを書いていきます!歴史、背景、歌詞や曲の解説、おススメゴスペルアーティストなどなど!ゴスペルをメインに私の人生や想い、音楽や信仰に対する情熱を日々の出来事から綴っていきたいと思います。

旧約聖書時代の神様ー情け容赦なし!!!!

 聖書を読んでいると、本当に神様の不思議さ、偉大さに触れることが出来る。

旧約聖書ユダヤ教である。(今更だけど)でも、聖書に触れたことのない人取っては

えええ???キリスト教ユダヤ教って同じなん????という疑問があると思うのだ。かくゆう私もそうだったしね。

ユダヤ教の時代は神様と人間はダイレクトに繋がり、その仲介者として神様の言葉を受け取る預言者が居たわけなのだ。

はい、ではこちらです!AIよろしく!

 

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旧約聖書に登場する預言者は、時代によって異なります。以下に、一部の主要な預言者とその時代を示します。

  1. モーセ(Moses):紀元前13世紀頃。エジプトからイスラエル民族を導き、十戒などを受け取った。

  2. エリヤ(Elijah):紀元前9世紀頃。イスラエル北部の王国で活動し、偶像崇拝との闘いを行った。

  3. エリシャ(Elisha):エリヤの後継者であり、同じく紀元前9世紀頃に活動した預言者

  4. アモス(Amos):紀元前8世紀の預言者で、北イスラエル王国で活動し、社会的な不正に対して警告した。

  5. ホセア(Hosea):紀元前8世紀の預言者で、イスラエルの不忠を象徴的に表現し、神との契約のイメージを用いて語った。

  6. イザヤ(Isaiah):紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて活動した預言者で、ユダ王国の政治的・宗教的な状況に対して預言した。

  7. エレミヤ(Jeremiah):紀元前7世紀の預言者で、ユダ王国の最後の日々とバビロン捕囚を予言した。

  8. エゼキエル(Ezekiel):紀元前6世紀の預言者で、バビロン捕囚中に活動し、神のメッセージを伝えた。

  9. ダニエル(Daniel):紀元前6世紀から5世紀の預言者で、バビロン捕囚の時代に活動し、預言と解釈の才能で知られる。

これらの預言者は、古代のイスラエルユダ王国の歴史的な出来事や宗教的・社会的な状況に対して、神の啓示を伝える役割を果たしました。

 

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ありがと!AI。(笑)

これらの偉大なる預言者を通して、人間たち、特に当時の王や権力者達は神様に試されることになる。当然、信じる者もいれば、預言や忠告を受けながらも信じずに無視して、人間的な自分の意思で行動してしまう権力者たちも多々登場する。

そうなるとどうなるか?

神様の怒りに触れ、それはそれは大変なことになる。

有名な「ノアの箱舟」はその典型的な例。

創世記の時代にも既に、人間たちは罪を犯しまくり、神様への信仰も薄く、洪水でもろとも流されてしまう。ほんの少しの正しい人間と家畜のみがノアの箱舟に乗り、生き延びるという物語である。

その後も沢山の戦争や、盗み、人殺し、誨淫、偶像崇拝等々の人間たちの罪深い行いは当たを絶たず、その度に神様による容赦無い裁きにより、人種諸共滅びる物語は続く。

そこには、神様の憐れみや慈悲や赦しと言った、イエスキリストが登場してからの「罪の贖い」のようなものは存在しない。

だから人間は必死に家畜や時に人間を生きたまま生贄として神にささげていたのだ。

 

唯一の憐れみというならば、預言者を送り、神様からのメッセージを伝えている事だろう。にもかかわらず・・・である。

どんな時代も人間は愚かで、ちっぽけで、弱い生き物だと悔い改めの気持ちで身につまされる次第である。

 

そこで、神様も悩んだと思う。。。

「ふむ、どうしたものか・・・これでは不毛な罪の繰り返しではないか。

私が折角創ったこの美しい完璧な世界が進化するにはどうしたらよいか。

預言者だけでは事足らん。仕方ない・・・奥の手で何とかしよう。」

 

ということで、罪深いちっぽけな私たちに、罪の贖いとして、そしてまた更に神様の憐れみと深い愛の象徴として、「イエスキリスト」は誕生した。

エスのおかげで、どんなに罪深い人間もやり直しが可能になり、また悔い改めることにより、まるで新しい人間として「生きなおす」チャンスを与えられることとなる。出来の悪い子ほど可愛いということなのかもしれない。

「赦し」という新しい価値観が生まれたのである。

旧約の時代なら諸共洪水で流されるか、焼き払われるか、皆殺しになるかというところだけど、イエスの登場で人間の罪はイエスがその生贄となり、自らが命を持って私たちの罪を洗うという、神様の最終的な人間への深い愛のしるしとなった。

 

そしていつだって神様は私たちと繋がりたがっている。

「神を信じる心」を求めている。

神に背を向ければ向けるほど、私たちには試練が降りかかる。

人間的な欲望にのたうち回ることになるのだ。

しかし試練の中に居るときほど、神様は深く私たちに介入してくださる。

そこに「救済」の手が差し伸べれられる。

 

モーセ十戒により、私たちは神様から直接正しい道を教えられるはずだったが、なかなか守れる人は少なかったのだろう。

私自身も沢山の罪を犯して、その後イエスキリストを受け入れて、その罪を贖われて今の私がある。

罪は犯罪だけではない。

偽善や承認欲求により犯す精神的な罪も物凄く悪霊が好むネガティブなものである。

それらによって、人を追い詰める事だってあるのだ。

今のSNSのように、集団リンチ的な書き込みがまさにそれだろう。

弱い人間ほど「集団」化して人を攻撃したがる。

口にしなくても、文字で攻撃したり、霊的に攻撃したりもするのだ。

悪霊はそのような人達を見逃さない。

すぐに入り込んで、ネガティブな言葉を煽っていく。

 

エスキリストは神様の切り札であり、これ以上もこれ以下もない。

エスは「最初であり、最後なのだ」

神はアルファでありオメガであるように。

 

もし、今イエスキリストが与えられていなければ、おそらくほとんどの人間は洪水によって流され、ほんの1%くらいの信仰深く正直な人と家畜がノアの箱舟にのって、またこの世のすごろくは振り出しに戻されるであろう。

でも、私たちにはイエスがいるのだから、一人でも多くそのことを信じていけたらいいと思う。

エスによって明確に示された神様の愛を伝える人が増えますように。

私もその一人になっていきたい。

ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!

 

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